幸福とは口腹。あなたの甘味こそ幸せ!

  • 2017.08.18 Friday
  • 00:00

 

 

 

 

 

 

千載の彼方(あなた)の甘味よ

お前よりも美味しい甘味はない。

千載の彼方の甘味よ

もう、二度と味わえぬ遠い過去の、あるいは味わう事叶わぬ遠い未来の甘味よ

お前よりも旨いモノは、この地上に存在せぬ。

なんとなれば、彼方の甘味こそ、甘味のイデアであると同時に、完全に理想化された甘味であるからだ。

 

此の時遅く彼の時早く。

私の脳内で作られたセロトニンの99%は腸内に蓄えられ、腸内でも脳内と同量のセロトニンが作られるのであるから、人間の中心を通る原初の管こそ、地にしっかりと足のついた「しあわせ工場」に他ならない。

 

80億の人口が居れば80億の「しあわせ工場」がある。一切皆苦の人間世界も一皮剥がせば、それを陰から支えているのは「しあわせ工場」に他ならない。「全てが許されている」のは、「しあわせ工場」が地上の人間社会を下支えしているからだ。

 

もしも人類が地上の「くだ」らない規則を止めて、「管」と伝統に従うなら、技術革新のない代わりに幸福があるのかも知れない。幸福=口服=口説をわたしは唱えよう(

 

西洋占星術は春分点を中心にした世界観なので、基本的には、この「しあわせ工場」に素直に生きた場合の人間像を表す。しかし、現実の世界はグレゴリオ暦で運用されており、生来の人間のリズムとは異なる理性偏重、大脳偏重のリズムで生きている(グレゴリオ暦では正月≒冬至)。

この為、ホロスコープに示された、その人の幸福の在り処が、現実社会で本当にその人にとって幸福とは限らない場合が出てくる。本人にとってのしあわせでやりたい事が現実社会では無価値な場合も多々ある。故に、現実社会との間で上手くバランスを取らなければならないのだ。

 

千載の彼方(あなた)の甘味とは、千載の彼方の人類の幸福=口腹であり、千載の彼方の過去と、千載の彼方の未来の人類の、本来的にあり得ない幸福の形である。

 

それは、おそらく、ホロスコープに示された春分点を起点とする「しあわせ工場」に基づいた社会でのみ達成される。

 

千載の彼方の過去の幸福な社会とは、アダムとイブがまだ神の楽園で暮らしていた時代の幸福であり、千載の彼方の未来の幸福な社会とは、あなたが思い描く理想郷である。

そこでは、人々は一切の労働をしなくてよく、代わりに24時間自分の好きな事をして楽しく、快適に暮らしている世界を想像するかも知れない。

 

しかし、楽園の門の前には炎の車輪が陣取っていて、二度と戻れそうもないし、片や未来の方はと言えば、それは現在の延長線上にある。これ程までに科学が進歩して人間のする仕事がなくなっているのだから、遊んで暮らせる日はそう遠くないと思いたいところだが、AIに仕事を取られて失業の憂き目に遭う事を心配している様では、そんな世界は来そうもない。千載の彼方の甘味とは、この世には存在しないイデアとしての甘味である。

 

やれやれ、千載の彼方にすら幸福がないのであれば、無駄な努力はやめて、のんびりと漸進するのが好さそうだ。グレゴリオ暦のリズムから旧暦(正月≒立春)のリズムにシフトしてマッタリと生活しようか。

 

遠くへ行くのは疲れる。甘いモノを食べて休憩しながら、途中で花を摘みながら、旧暦のリズムでキャッキャウフフしながら行く旅は、それでもなかなかに楽しいに違いない。

素人が株を買ったらアカン事になたー!

  • 2017.08.01 Tuesday
  • 00:00

JUGEMテーマ:星占い・星読み・占星術

 

 

 

 

 

 

突然、株に手を出した。

それもたった十数時間前に。

 

改めてその時の3重円を見てみると(自分のチャートを改めて見てみるのは、今日からの新しいテーマ)。ネイタル・プログレッシブ・トランジット入り乱れて、水のグラトラとなり、そのエネルギーが2ハウス方向にカイト崩れの天体で流れ込んでいる。

 

その一角が不運にも海王星である為、嫌な予感しかない。

 

はてさて案の定!

わたしは海王星で夢をみたのだろう。買って数時間で塩漬け確定してしまった。

売買用と言うよりも配当用なので、美味しくもないが全くダメでもない筈と思っていた…

思っていたのだが、結果、大暴落w

関東大震災か東京大空襲が起こらなければ安泰であろう目論見はもろくも崩れ去った訳であるw

 

 

結論だけ言うと

証券会社の営業マンの口車に騙されたのだが、ここまでの流れを追ってみるとチャート通りで面白い。

 

まず、Ascと同じサインに海王星がイングレス。ジリジリとAscに近づいて来ると、私は突然、動画鑑賞三昧の日々となった。それも殆ど徹夜で毎日。やめたいのにやめられない。動画中毒(深堀しよう!感受点 参照)。

 

海王星が留から逆行に転じると、動画中毒は収まったが、今度は、突然の出会い(証券会社の営業マン)で株を購入する羽目に。この時、海王星を含めて水のグラトラが出来、そのエネルギーがカイト崩れで2ハウスへ流れ込んでいたと言う次第。水のグラトラのエネルギーを土の射出孔から現実に打ち出したと考えると、非常に納得の行く流れだ。

 

この人とのやり取りがまた絵に描いたようなグラトラで、一切マイナス面を考慮しない会話であった。それを知りつつも、何故に手を出したかと言うと、このホロスコープをみてちょっと興味を持ったから。卵が先か鶏が先かみたいな話。別の方向に向ける手もあったのだが…。

 

本来のわたしからすると、

こうした行動は当然、逸脱であって、通常なら考えられない。

チャートに出ていても、普段なら、そんな冒険は決してしない。

思うに、こんな事態に陥ったのは、長きに渡ってAscが海王星から影響を受けた結果、わたし自身が変容したからではなかろうか?

 

動画三昧の日々で、確かにわたしは生き方を少し変えた。より効率的になった。ゲーム理論に忠実にプレイするのが基本と学んだが故に、現実でも基本に忠実に生きようと思い始めた。

そして、ゲーム特性に沿って自分の能力値をバランスする様に上げて行く事も大切だが、最終的にはプレイヤー次第と言うのも見た。

 

現実世界で、プレイヤーとは一体、何を指すのだろう?

実体の詳細は不明。

しかし、本人の志向性は、明らかにプレイヤーに属するモノの一つであろう。わたしの場合は、長期保有の安定株と言う戦略を内在させて(志向して)いたのであった。

 

話を戻そう。

株に手を出すと言う暴挙に出た心境の変化は、先のブログでも書いた動画三昧の日々から大いに影響を受けている。

この他にも冥王星が効いていたりもするので、きっとその影響なのだろう。3重円でみると、今の私に起こっている変化が手にとるように分かって面白い。

 

だが、株価は全く分からない。

また今日も値を下げそうで怖い((+_+))

 

神と悪魔と整数とわたし

  • 2017.07.24 Monday
  • 00:00

 

 

 

 

当時、まだ惑星が7つだった頃。

最上位の星は土星で、土星は神の星だった。神は一週間で世界を創り、惑星も7つ。 そこで「7」は神の数字とされた。

 

人間は、頭が1つに、手足が2つずつあるので、

「5」が人間の数とする説もあれば、6日目に 神によって創られたので「6」が人間を表す数とされる場合もある。 また別の説では、悪魔は神よりも劣り人間よりも優れた存在なので、神の数字「7」の1つ下の「6」とも言う。

 

この場合、人間は「5」になるのだろうか?

どうやら、神と人間の中間が悪魔らしい。 しかし、「6」は調和の数(ライダー版の審判に示された人の数も6/人も調和的に生きる事が出来る。審判で人間に齎されるのは調和なのかも知れない。それを人間が望むかどうか、喜ぶかどうかは別にして)でもあるので、 もしかしたら、悪魔はその調和が崩れた状態、例えば「6.66…」の純循環小数とも考えられる。

 

人間があり、調和的な世界があり、その上に神が在る。

世界(6)と神(7)の間には、整数に対する半端な数=帯小数が無数に広がっている。有限小数・無限小数・循環小数・純循環小数…。これ等を或る種のバグの様な存在と考えると、悪魔と呼ばれているのは、コレではなかろうか?

 

最近思うのだが、

人間も「5」と言ったハッキリした整数ではないのかも知れない。人間と言う概念では整数でも、個々具体の人間一人ひとりは帯小数で、更にその一人ひとりの一瞬いっしゅんは、微細に変化して存在を示す数字も揺れている様に思う。

 

ここで、整数と少数の意味についてもう少し整理しておく。

整数はアポロン的かつイデア的で、秩序を持ったハッキリした意味を表すとすると、一方の少数は、循環小数の場合を除いて、意味は曖昧で混沌としておりデュオニッソス的。特に無理数の場合は、無限の意味を孕んだ読解不可能なモノ、或いは、それ独自の何か不可知なモノとなる。

 

人間が帯小数であるとしたら、

神に創られた秩序からはみ出した存在と言う事になり、存在的には悪魔と大差のない混沌とした存在となるのではなかろうか? なれば人間の創った社会に調和がなく、個々人も不均衡を好んだとしても不思議ではない。しかし、神の恩寵は、それすらも計算の裡に入れた底抜けの調和である。 結果、我々の世界は調和で成り立っている。

 

少し話がそれるが、

私の勝手な妄想では、人間が帯小数なのは、神と悪魔の結婚から生まれたからだ。秩序と無秩序との結婚。この世のいと高きモノといと低きモノの結婚が新しいモノを作り出すとするならば、これが最も自然な人間の現象の仕方と言うモノだ。

 

タロットの「審判」のカードでの人間は、

「5」の帯小数から、宗教的情操によって自己変革に至り、整数の「5」、或いは「6」の調和に辿り着いた。そんな状態の人間を表している(勿論、トーゴの妄想w)。

 

神が定めた本来の姿の人間に戻った瞬間と言うのは不思議なモノで、人は、その時、何かを掴んだ、何かを知った、或いは、何かに成った様な気がするのである。実際には、ただ心が落ち着いただけなのだが…。

 

人によっては、

更にこれを繰り返し、人間から神への、整数から整数への階段を昇る者もあるであろう。仏教の用語で言えば、ほんの一瞬間、一刹那。仏界の境地に辿り着いた状態。

その瞬間が「審判」。

私の好きなカードである。

 

宗教的情操を受け続けるとは、

帯小数の人間を、繰り上げて「6」にする作用と言う事になる。 調和に達すると、先に書いた通り、確かに心地良いし、満足感もある。しかし、実は人間は調和に達したくない生物なのでは あるまいか?帯小数のまま、無限の可能性の中で微睡んでいたい。そんな願望も人間にはあるのではなかろうか?

 

なんて事を最近、考える。

或いはそれは、人間存在の域帯の問題なのかも知れない。つまり、人間は構造的にそれ以上のモノにはなれない様に設計されていて、調和的存在であり続ける事は、人間存在そのものに大きな負荷をかけてしまうのではあるまいか? だから、わたしは修行が嫌なのではなかろうか?

 

 

なんだ…、 言い訳だったか(爆

 

 

否、否、否、

だからこそ、

苦しいからこそ、

繰り上がった状態である「審判」のカードが尊いのである。

 

私が変わらずに、ずっと好きな理由はそこにある